遠い記憶
おまけ話
「名前の無い馬」
ハダクの丘での、雨乞いの祭りから数日が過ぎた頃だった。
夕方となり、いつものように野営するための作業を手分けして済ませると、ジハンは牛車を停めた場所へ戻ってゆく。すでに仲間は集まっており、彼が最後の一人だった。
そのまま差し出された椀を礼を言いつつ受け取って、スープを飲むと一息つく。そんな気の抜けた瞬間を待っていたかのように、真子がジハンに話しかけてきた。
「ねえジハン、牛達の名前を教えて」
「名前、ですか？」
なぜ突然そんな話になったのかが分からず、聞き返す。
「これだけ牛車に乗っているのに、あんまり牛の存在を意識していなかったなと思って。馬にはね、よく話しかけたりしているんだけれど」
そういえば牛車を御するのがジハンしかいないせいか、牛の世話はもっぱらジハンの役目だ。一方の真子は現在火起こしの特訓中。火種は持って移動しているが、そこから薪に火を起こすまでが結構難しい。日中は乗馬の特訓で、夕方になれば薪拾いから始まり火起こしに夕飯作りと、真子が牛に触れ合う機会は確かに少なかった。
「ゴクとマゴクですよ」
触れ合う機会が少ないのと牛の名前を聞いてくる関連性が、ジハンの中ではよく繋がらない。だからといってさらに問いに問いを返すつもりも無く、素直に答えてみせる。だが、その言葉に真子が奇妙な顔をした。
「それ、馬の名前でしょ？」
「馬の、名前？」
今度はジハンが首をひねる番だった。どうも話がかみ合わない。こらえきれず、先ずヒコが笑い出す。
「真子、思い込みで訳されているぞ、それ。ゴクとマゴクって、固有名詞じゃないんだよ。単純に、右と左って意味」
「右と、左……。って、じゃあ馬の右と左に、牛の右と左？」
「右側に付けたときにゴクと呼び、左側になったときにはマゴクと呼びます」
ごく当たり前に答えたつもりだったのに、真子はさらに混乱したように聞き返した。
「それじゃあ、名前が無いってこと？」
「家畜に名前は付けませんよ」
「なんで？」
「食べちゃうから」
あっさりと美幸が答え、真子がその内容にびくりとする。
「食べちゃうのに名前付けたら、情がわいて食べられなくなっちゃうでしょ。だから名前は付けないの」
「……ああ、うん。そうか。そうだよね」
ようやく気が付いたように、真子がうなずいた。けれどまだ眉が寄っていて、消化不良を起こしたような表情だ。頭では分かっているのに、感情では追いつかない。そんな表情。
けれどすべての家畜は最終的には食べられるためにあるのだ。馬でも牛でも、羊でも山羊でも。だから誰も、真子に対して言葉をかけようとはしなかった。あとは感情が追いついて、納得するのを待つしかない。
数秒の間が空いた後、真子はぱんと両手を合わせると、椀に向かって深々と頭を下げた。
「美味しく、いただかせてもらいます」
ふっと、拓也の口元に笑みが浮かぶのをジハンは見逃さなかった。もちろん美幸とヒコも同じだろう。
「でもさ、前にジハン言っていたよね。自分の名前はアクタの馬から付けられたって」
気持ちの良いくらいの食べっぷりで椀を空にし、お代わりをしながら、真子がもう一度聞いてくる。
ぱちぱちとはぜる炎。美幸が食後のお茶のために、お湯を沸かそうと鍋を入れ替える。火力を強めるため白樺の枝を差し入れてから、ジハンは真子の質問に答えた。
「例外はあるんですよ。どうしても特別なものは出来てしまう。だからそういうのが出た場合、風の精に奉げるんです」
「風の精に？」
「精霊に奉げたものを勝手に人が食べることは出来ません。だから奉げた後は他のものとは区別され、名前が付けられ、家族と同様に扱われるのです。ハダクの丘で雨乞いを行ったとき、家畜を連れてきている人たちがいたでしょう？ あれがそうですよ」
「いた、いた！ じゃあ、アクタの馬は精霊への奉げ物だったんだ」
ふうん。とつぶやきながら聞き入る真子の態度は、完全に他人事だ。自分が行ったことだというのは、すっかり意識に無いらしい。ジハンは小さく苦笑すると、そのまま真子を見つめた。
前世の記憶が無いまま、この世界に戻されてしまった少女。数日前のハダクの祭りの宴会では、民衆の期待感に押しつぶされそうになっていた。
それでも、真子の動きは時々はっとするほどジハンの心を揺さぶってくる。
こんなに無力な少女なのに、いざ目の前に危機が起これば毅然とした態度で真正面から立ち向かう。井戸から飛び出た龍が子供達に襲い掛かろうとしたとき、身を持ってかばおうとしたあの後姿。紛れも無くジハンの記憶に焼きつくアクタと同じだった。
そう。五歳の初競馬の時だ。
到着地点に真っ先に駆け込み、皆からの祝福を受けているとアクタが数名の大人たちと現れて、ケレイトの名をジハンに与えたのだ。
いい、ジハン。あなたはこの後、私に代わってこの草原をまとめるの。大丈夫。あなたなら出来る。だってあなたの名前は、私の馬から付けたのだもの。すばらしい優駿。風を感じ、風と共にいて、風の精に奉げた私の馬。あなたには風の精の加護が付いているのよ。だから大丈夫。あなたなら出来るわ。
族長のシャラブがなにか怒鳴っていたが、ジハンの耳にはアクタの声しか入ってこなかった。まだ幼いジハンを見下すことなく、同じ目線でアクタが語る。その揺ぎ無い姿勢に、アクタの背になにか重いものが乗っているのを感じたのだ。
そして自分が見込まれて、とても大切なものを託されたことも理解した。
やれるわね、ジハン。
時々、真子の背中に、そして瞳に、アクタにそう問い掛けられているような気がする。
やりますよ、アクタ。
この地へ帰りたい一心で転生をし、記憶が戻らないままそれでもこうして自分の目の前に存在している、従姉弟殿。そんな彼女がいる以上、ジハンが逃げるわけにも行かない。
「ね、ジハン。馬のゴクとマゴクも、牛のゴクとマゴクも、この旅が終わったら食べられちゃうの？」
恐る恐るといった表情で、真子が尋ねる。まだ彼女の中では、食料の話が続いているらしかった。
「旅が終わったらでは無いにしろ、今の仕事が出来なくなったら屠ります。さすがにこれだけ一緒にいると自分ではやりたくないので、その前にご近所へ贈り物として渡してしまいますが」
「ああ、そうだよね」
中途半端にうなずいて、それから上目遣いで真子はジハンを見つめた。誰にでも分かる、お願いの表情だ。
「あの、出来ればアクタのときのジハンのように、牛と馬のゴクとマゴクも風の精に奉ってくれると嬉しいなと思って。いや、甘っちょろいこと言っているなっていうのは自分でも良く分かっているんだけれど、でもやっぱりこうして旅をしているわけなんだし……」
さすがにこんな姿のアクタをジハンは見たことが無い。けれどこんな風に、いちいち草原の習慣に驚き立ち止まり、そして自分なりに乗り越えていこうとする真子の姿は好ましかった。
「では来年のハダクのお祭りには、四頭を連れて行きましょう」
「え？ いいのか、ジハン」
ヒコの驚いたような声がする。さすがに四頭というのは多すぎる気がしたが、仕方ない。ほかならぬ真子の頼みだ。それに来年こそはこの歪んだ気が正しい方向に導かれ、滞りなく祭りが行われるよう、願う気持ちもこもっている。
「ああ、でも」
一点だけ気になって、ジハンは真子にお願いした。
「ゴクとマゴクを人の名前に付けるのだけは、勘弁してくださいね」
